『世界最高のジャズ』の著者でもある原田和典さんによるJAZZへの熱い想いを語ったコラム! |
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第4回 没後50年 ワーデル・グレイの魅力を改めて考えてみたぜ |
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僕は今のジャズが大好きだが、それほど時代にこだわっているつもりはない。第一、いいものに古いも新しいもない。16年間もジャズ専門誌(しかもマニアックな)に勤めていたら、“知りません”“聴いたことがありません”という対応はあまり許されないのだ。プロとして。リロイ・ヴィネガーの全参加アルバムは無理としても主なリーダー作ぐらいはタイトルと音が一致しなくてはいけないし、キング・オリヴァーからナッティ・ドミニクからビッグ・アイ・ネルソンからマグシー・スパニアからクラレンス・ウィリアムスからディック・ウィルソンからノア・ハワードからタイロン・ワシントンから、とにかく猛烈にミュージシャンの名前を覚え、音を聴いた。これを勉強と呼ぶのであれば、そのへんの受験生が組体操でピラミッドを組んで突進してきても倒されないぐらいには“勉強”した。 ◇ ◇ ◇ワーデル・グレイ 今回は温故知新シリーズの第1回(勝手に名づけた)として、ワーデル・グレイをとりあげたいと思う。僕は彼のテナー・サックスが大好きなのだ。音色は太くもなく細くもなく、という感じがするが、とにかくアドリブ・フレーズが歌っている。それに節回しが粋だ。彼の心の中にあるメロディが楽器からスムーズに、まるで同時通訳のように流れ出る。ああ素敵だなあ、と思わずにはいられない。ただ、僕がグレイに関心を持ったのは、プレイの素晴らしさはもちろんのこと、謎めいた死因にもあることは正直に告白しなければならない。僕は山田風太郎の『人間臨終図巻』が好きで、なんというか、人はどういう風に死ぬのか、何を感じて死ぬのかということにずっと興味を抱きつづけているのだ。風太郎の『図鑑』には八百屋お七から、ジャンヌ・ダルク、エルヴィス・プレスリー、小林多喜二などの死に様が書かれている。ジャズ・ミュージシャンはひとりも登場しないが、もし風太郎がワーデル・グレイを知っていたら、あるいは実は知っていたとして、グレイにプレスリーばりのネーム・バリューがあれば、きっと風太郎は文章をしたためたことだろう。 ワーデル・グレイの生涯について書かれた資料は少ない、が、そのうちの多くにはこうある。“1955年5月25日、ラスベガスで撲殺された”。撲殺、である。僕はグレイについて記してある日本語の文献で、はじめてこの単語を知った。だって普段つかわないでしょー、撲殺なんて。ちなみにこれは“ぼくさつ”と呼ぶ。辞書でひいてみようか。僕はこのところもっぱら、三省堂の新明解国語辞典を愛用している。そう、赤瀬川原平の「新海さんの謎」のモデルとなった、あの“新海さん”である。さあー撲殺、載っているでしょうか… パラパラパラ(ページをめくる音)、ありました! 1191ページ。 ぼくさつ【撲殺】 なぐり殺すこと。 主張をたんまり持ち込み、辞書界のチャールズ・ミンガスと呼ばれている(僕によって)新海さんにしてはやけにあっさりしている。だが、この見解に従うと、ジャコ・パストリアスも撲殺されたことによって他界した、ということになるなあ。 問題はワーデル・グレイがなぜ撲殺されなければならなかったか、ということだ。そしてもうひとつの疑問は、40年代後半にあれだけ多くのレコーディングやセッションをこなし、素晴らしいプレイを聴かせた彼のレコーディングが53年あたりから激減、55年に吹き込んだセッション(ひとつはアルト・サックス奏者フランク・モーガンのGNP盤への客演。もうひとつはヴィー・ジェイに吹き込んだリーダー録音。現在はオムニバス盤CD『サックス・アピール』等で聴ける)が、これが本当にあのワーデル・グレイなのかと思えるほど精彩を欠いている点についてである。音が外れるとか、フレーズがメロメロだというのではない。指もフレーズもしっかりしているのだけど、心そこにあらずというか、ガスばかりもれてちっとも点火していないという感じの演奏なのだ。一体、グレイに何が起こったのか? 亡くなる少し前から、グレイはベニー・カーターのオーケストラで演奏していた。カーターたちは55年5月、ラスベガスに赴き、開店したばかりの社交場「ムーラン・ルージュ」に出演し始めた。中にはホテル、劇場、カジノ、レストランなどがあった。カーターはグレイが20代の頃から目をかけ、たびたびセッションで共演した旧知の仲であった。 カーター楽団のバンドスタンドからグレイの姿が消えたのは5月25日の最終ステージのときだった。翌日、彼の死体は街から4マイル(1マイルは1.6km)も離れた砂漠の中で発見された。首の骨は折れ、頭蓋骨損傷、鈍器で殴られたような跡があった。友人たちの間ではドラッグがらみのトラブルに巻き込まれて殺されたのだという推測が多かったという。40〜50年代に活躍したジャズ(とくにモダン・ジャズ)のミュージシャンの多くはドラッグにかかわっていた。グレイと一緒に2テナー・サックス・チームを組んで「ザ・チェイス」という曲を出したデクスター・ゴードンは50年代の殆どを療養と刑務所に捧げた。グレイもかなりの“アディクト”だった。彼の死にはほかにもいろんな噂が流れた。“ギャンブルで大敗した金を払えずに殺された”、“大金持ちのギャンブラーの白人妻に手を出したことがバレて射殺された”などなど。 ただ、実際の死因はそんなドラマティックなものではなく、やはりドラッグのオーヴァードーズによるものだそうだ。量を間違えて亡くなるひとは意外と多い。アレンジャー、ヴィブラフォン奏者で、最近はソフト・ロックの父としても評価されているゲイリー・マクファーランドもオーヴァードーズで他界したという話だ。彼はニューヨーク、グリニッジ・ヴィレッジにある「55バー」のトイレでキメていて、そのまま絶命したという話をなにかの雑誌で読んだことがある。この「55バー」は、今も毎晩、注目のミュージシャンが出演しているライヴ・スポットだが、場内は縦長で狭く、当然ながらトイレも狭い。僕はここで小便も大便もしたけれど、こんなに落ち着かない空間で用を足すこともそんなにないだろうなと思ったものだ。まさかそこでマクファーランドが逝っていたとは、なんともびっくりさせられる話である。 カーター楽団の演奏がもう少しで始まろうかという頃、グレイはテディ・ヘイルと共にヘロイン・パーティの真っ最中であった。へイルは「ムーラン・ルージュ」開店のために呼ばれていたダンサーであるが、すでに何度もドラッグがらみで逮捕されていた。おそらくヘイルにとって、グレイは“テイストをシェア”するためには最高の相棒にうつったことだろう。だがグレイは間もなくウンともスンともいわなくなった。寝転んだまま、固まっている。ヘイルはいったん別の部屋に移ってステージ衣装に着替え、グレイのいる場所に戻った。だが彼はまったく動かない。 ヤバイ、死んでいる! ヘイルはあせった。だがまず自分の保身を考えた。部屋でドラッグ・パーティーをやっていたことが警察に知れたらこんどはどんな虐待を受けるだろう。しかも自分は黒人なのだ。黒人がラスベガスで罪を犯したら・・・・・。そのためにはグレイの死体を部屋から持ち出し、彼の別な死に方を考える必要があった。ヤクチュウの屍が自分の部屋にあっては絶対にまずいのだ。 ヘイルはもうひとり、裏の世界に通じ、絶対の信用を置ける男を呼び出した。そしてふたりはグレイにステージ衣装を着せ、息絶えた彼の両肩を支え、ひたすら歩いた。まるで足取りのおぼつかない酔っ払いを介抱するようにして。そして砂漠に彼の死体を置き去った。首の骨はそのときに折れたのではないか、という説もある。 グレイがもうちょっと長生きして、53年ごろまでのテンションを保ち続けていたらソニー・ロリンズやジョニー・グリフィンなど東海岸が誇る“新進”テナーマンの好ライバルになっていたに違いない。そして、ジェームズ・クレイやハロルド・ランドと共に西海岸の黒人ジャズをリードしたことであろう。グレイの影響を受けたプレイヤーとして僕が真っ先に思い浮かぶのは50年代初頭のフランク・フォスターだ。今では作編曲やオーケストラでの印象が強い彼も、グレイが生きていれば、もうちょっと余計に“うたうテナー”を聴かせてくれたかもしれないし、あんなに急にジョン・コルトレーンに傾倒することもなかったのではないかと、僕はつい推測してしまう。 ◇ ◇ ◇くどいようだが、55年の録音を除けば、グレイの演奏には見事なまでにハズレがない。その中でも僕がとくに好きなものをあげさせてもらうと、プレスティッジ盤『ワーデル・グレイ・メモリアルVol・1、Vol・2』は不滅にして永遠の定番といったところだろう。音質も、50年のライヴを除けばかなり良い。ソニー・クラーク、ハンプトン・ホーズ、フランク・モーガンの演奏も聴ける。彼らとグレイは、白い粉を介して兄弟同然のつきあいだった。あと47年の『ウェイ・アウト・ワーデル』も、ライヴのグレイがいかにすさまじいかを示す素敵な1枚だ。以前Pヴァインから復刻されたが、この中の「ブルー・ルー」は単独でいろんなコンピレーションに収められている。それほどグレイの代表的名演なのだ。「ベドラム」など、ベニー・グッドマンのバンドで吹き込んだ演奏もいい。僕の耳にはグッドマンのクラリネットはやかましいし、あれが“キング・オブ・スイング”なんてジョークにしか思えないが、それでもライオネル・ハンプトン、チャーリー・クリスチャン、グレイをバンドに入れ、ソロをとらせたことぐらいは評価したいと考える。僕の聴いたグッドマンの名演はベラ・バルトークと共演した「コントラスツ」(40年)につきる。話がそれてしまったが、その点、カウント・ベイシーこそ本当のキング・オブ・スイングではないか。「リトル・ポニー」でのグレイのアドリブは、心底スイングすることの気持ちよさを味わわせてくれる。 『ファビュラス・ファッツ・ナヴァロVol・1、Vol・2』に入っているタッド・ダメロン・バンドでのグレイもいいし、リトル・ウィリー・リトルフィールドなどブルース・シンガーの後ろで吹く彼もかっこいい。チャーリー・パーカーが「スティープルチェイス」を録音する2年前に、同じメロディを吹き込んだ46年のセッション(『ワン・フォー・プレス』という題名でCD化)も忘れられない。 没後50年、もっとワーデル・グレイを聴こう! |
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愛知万博終盤になんとか滑り込んだ。北欧館でGustav Lundgrenというギタリストのカルテットを聴く。ジョン・スコフィールド風だなあ、と思った。野外ステージではコンゴ共和国のパーカッション・アンサンブルをやっていた。これがもう最高、コンゴこっちの分野ももっと知りたいと思う。チュニジア館では初めてチュニジア・コーヒーを飲んだ。渋くて苦いけれど飲んでいくうちに甘みが感じられて、これもまたよし。名古屋にも行ったが、ぼくには栄(さかえ)などよりも、太閤口の奥深く、あのさびれた細道に親しみを覚えた。
原田和典(はらだ かずのり) 1970年北海道生まれ。ジャズ誌編集長を経て、2005年夏よりソロ活動開始。ジャズ、ブルース、ファンク、ロック、アイドル、突然段ボール、肉球、なんでも好き。 |