『世界最高のジャズ』の著者でもある原田和典さんによるJAZZへの熱い想いを語ったコラム!

原田和典のJAZZ徒然草
第38回 ビ・バップに取り組み、砕け散った男。ハービー・フィールズの話をさせてもらうぜ
THE DIG PRESENTS DISC GUIDE SERIES JAZZ SAX
DISC GUIDE SERIES
JAZZ SAX

おかげさまで、ようやく「THE DIG PRESENTS DISC GUIDE SERIES JAZZ SAX」(シンコーミュージック)をお届けすることができた。人気ロック雑誌「THE DIG」別冊の“ディスク・ガイド・シリーズ”第33弾目である。

これまでパンク・ロック(UK、US)、テクノ・ポップ、ロカビリー、ヒップ・ホップ、ハワイアン編などを出してきた同シリーズだが、この本で初めてジャズの深い森に分け入ることになった。チャーリー・パーカージョン・コルトレーン等の超大物から、ラッセル・プロコープ、ハル・マキュージック等の「あまり有名ではないが、知らないとジャズ人生、確実に損」といいきれる名手まで、サックス奏者のリーダー作が550枚以上も紹介されている。殆どのジャケット写真がカラーで掲載されているのも、いわゆる「ジャズ系のアルバム・ガイド」としては前代未聞のことだと思う。監修は不肖わたくしが担当させていただいた。盤のチョイスも筆者の選択もすべて自分自身でやることができたのは光栄のひとことに尽きる。ディスクユニオン各店でも絶賛取り扱い中なので、ぜひとも現物を目にして、ニヤリとしていただきたい。

といいつつ、もちろん、世のサックス奏者のすべてが、この本で紹介されているというわけではない。スペースの都合で泣く泣く掲載を見送ったプレイヤーは山ほどいる。ジョニー・ボスウェル、フィル・アーソ、サンディ・モジ、ヴィト・プライス、フランク・ソコロウ、チャールズ・タイラー、デイヴィッド・マン、ギャリー・ウィンド、アーノ・マーシュ、テッド・ブラウンなどなど。今回とりあげるハービー・フィールズも残念ながら漏れてしまったひとりだ。
ハービー・フィールズ? きいたことがあるようなないような…という読者は少なくないのではないかと思う。ただ、マイルス・デイヴィスのファンならば、間違いなく彼の名は無意識であるにせよ脳裏に刻まれているはずだ。なぜなら1945年4月24日に行われたマイルスの初レコーディング・セッションのリーダーこそ、ハービー・フィールズそのひとにほかならないからである。つまりフィールズは最初にマイルス少年を録音スタジオに連れ出した、とんでもない慧眼の持ち主というか、先見の明がありすぎる男なのである。

そして僕は、フィールズの名をきくと評論家の油井正一氏の文章を思い出す。もう詳しいことは忘れてしまったが、ライオネル・ハンプトン・オーケストラが1945年に吹き込んだライヴ盤の中で、ビ・バップを意識した曲があり、フィールズのプレイがフィーチャーされているのだが、それがめちゃくちゃもいいところで、「スイング系の演奏家がビ・バップを曲解した例。あまりにも珍奇な演奏」というようなことを書いておられたはずだ。

Live At The Flame Club,St.Paul
Live At The Flame Club,St.Paul
僕はあいにくそのハンプトン盤を聴いたことがないのだが、それから4年後の1949年にフィールズのバンドがミネソタ州セント・ポールでやったコンサートを収めた『Live At The Flame Club,St.Paul』(IAJRC)は持っている。メンバーは、まだデトロイトが拠点だった頃のフランク・ロソリーノ(トロンボーン)、ベニー・グッドマン・オーケストラのバップ化に一役買ったダグ・メトーム(トランペット)、天才!タイニー・カーン(ドラムス)、のちにはフュージョンまで演奏したマックス・ベネット(ベース)を含む超豪華なもの。しかも曲目はディジー・ガレスピー作「オウ!」、スタン・ゲッツ「ロング・アイランド・サウンド」の原曲である「ジング・ウェント・ザ・ストリングス・オブ・マイ・ハート」、ウディ・ハーマン・オーケストラのバップ曲「レモン・ドロップ」など。ロソリーノもメトームもバップ気分いっぱいにバップ・フレーズを撒き散らしている。そして満を持して御大ハービー・フィールズが登場するのだが・・・・・。この先は聴いたひとだけが知るお楽しみとしよう。僕はずっこけた。コールマン・ホーキンスのバップ風演奏が芸術品に思えた。スイングとビ・バップのプレイング・アプローチには、こんなに深く大きな断層があったのか。

◇  ◇  ◇

とはいえハービー・フィールズの誕生日は1919年5月24日だというからディジー・ガレスピー(17年生まれ)、セロニアス・モンク(17年生まれ)、ハンク・ジョーンズ(18年生まれ)より年下、チャーリー・パーカー(20年生まれ)、ワーデル・グレイ(21年生まれ)とも同世代なので、やりようによってはもうちょっと巧みにビ・バップに同化できたはずであり、しかもニュージャージー州の生まれなのだから、ニューヨークの最先端ジャズなど気持ちしだいですぐにマスターできたはずではないかと思うのは僕だけか。彼は17歳からプロ活動をはじめ、ジュリアード音楽院でも学んだ(つまりマイルスとはジュリアードの先輩・後輩という関係にあたる)。

ミントン・ハウスの
ミントン・ハウスの〜
1939年にはジョージ・ハンディ(40年代半ば、前衛ビ・バップというべき譜面をボイド・レイバーン・オーケストラに提供)のバンドで演奏し、41年にはレイモンド・スコットのバンドでもプレイした。同じ頃、アマチュアの録音マニアだったジェリー・ニューマンとも親しくなっている。ニューマンはご存知、『ミントン・ハウスのチャーリー・クリスチャン』を記録した人物だ。彼はジャズに対して並々ならぬこだわりをもっており、チャーリー・パーカーの演奏が大嫌いで彼が演奏すると録音機のスイッチを切ったといわれている。が、そんなニューマンもフィールズのプレイには満面の笑みをたたえて聴き入っていたという。ニューマンが記録したホット・リプス・ペイジ名義のアルバム『アフター・アワーズ・イン・ハーレム』(Onyx→High Note)を聴いてみてほしい。

FIRST MILES
FIRST MILES
41年に兵役にとられたフィールズは43年までニュージャージー州のフォート・ディックス陸軍基地に駐屯し、バンドを率いた。そして44年12月にはライオネル・ハンプトンのオーケストラに参加し、中央のジャズ・シーンに復帰(46年2月脱退)。どうやら彼は同楽団に参加した最初の白人ミュージシャンのようだ。最初に触れたマイルス・デイヴィスとのレコーディング(現在はサヴォイ盤『ファースト・マイルス』に収録)も、ハンプトン在籍時代に録音されたものである。また45年にはエスクァイア誌の新人賞を受賞している。彼がただの「ビ・バップを習得できなかった凡手」ではなかったことは、ここからもわかるだろう。

ハンプトン楽団から独立した後は自分のビッグ・バンドを結成し、当時の最大手レコード会社であるRCAビクターにも録音している。フィールズ楽団の卒業生にはニール・ヘフティ(トランペット、のち「バットマン」の音楽で有名に)、マニー・アルバム(サックス)、エディ・バート(トロンボーン)、サージ・チャロフ(バリトン・サックス)、ベニー・ハリス(トランペット)といったビ・バップ系のメンバーがいる。しかしこのビッグ・バンドも48年に解散してしまう。第2次大戦終了まもない当時はビッグ・バンド苦闘の時代。カウント・ベイシーはバンドを8人編成に縮小し、デューク・エリントンも大富豪の息子チャーリー・バーネットから資金提供を得てようやくオーケストラを維持していたといわれている。先述したIAJRC盤は、小編成バンドで再スタートをきった当時のフィールズを捉えた吹込みだ。

しかしこの“ハービー・フィールズ・セプテット”も経済的な成功とは程遠かったようだ。しかし、ビ・バップさえやらなければ、やはりフィールズは優れた楽器の使い手なのである。テナー、アルト、バリトンの各サックスを吹きこなし、クラリネットにも魅力を発揮する彼はやはり得がたいスインガーではあった。50年代に入るとホンカー〜ムード・ミュージック路線で順調にレコーディングを重ね(このころ、無名時代のビル・エヴァンスも彼のバンドに所属していたはずだ)、53年に録音された「ハーレム・ノクターン」は生涯を代表するヒットとなった。後年、サム・テイラーが吹き込んだ同曲が流行ったのは、すでにフィールズがこのメロディを民衆に“場慣らし”していたからだ、とは言いすぎか。12インチLPもRKO、デッカ、ユニーク、フラタニティといったレーベルに残している。56年ごろにはフロリダ州マイアミに移住し、同地を拠点にしながら(レストランも経営)、ラスベガス公演も成功させた。

が、1958年の9月17日、悲劇は唐突に訪れる。この39歳の有能なサックス奏者は、ベッドに突っ伏したまま息を引き取った。睡眠薬の飲みすぎが原因だった、といわれている(年齢と死因は白木秀雄そっくりだ)。死体は彼の息子と、ギタリストのルディ・カファーロによって発見された。ルディの、ちょっとチャック・ウェインを思わせるバップ・ギターは『Live At The Flame Club,St.Paul』で、たっぷり聴くことができる。

 
『THE DIG PRESENTS DISC GUIDE SERIES JAZZ SAX』(シンコーミュージック)が遂に発売されました。ディスクユニオンをはじめとするレコード店や書店でドクロの帯のかかった本を見つけたら、ぜひレジに運んでいただければと思います。どうぞよろしくお願いいたします。 猫が登場するレコードやCDのジャケット(いわゆる“猫ジャケ”)約200作をオールカラーで紹介した『猫ジャケ 素晴らしき"ネコード"の世界: レコードコレクターズ増刊』(ミュージックマガジン)も好評です。作品解説はすべて僕が担当しております。今年の秋は猫とドクロで! 原田和典(はらだ かずのり)
1970年北海道生まれ。ジャズ誌編集長を経て、2005年夏よりソロ活動開始。ジャズ、ブルース、ファンク、ロック、アイドル、突然段ボール、肉球、なんでも好き。

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