BREW MOORE
しばらく現役アーティストの紹介が続いたので、今回は時計の針を思いっきり反対方向に戻してみたいと思う。
Brew Mooreについて書きたいなあ、という気持ちが突如、芽生えてきたのだ。
いきなりだが日本では”rew”に対して、まるでそれが当たり前であるかのように“リュー”というカタカナを当てる。ケニー・ドリュー、ビッチェズ・ブリュー、アンドリュー王子などなど。そういえばリューチシューという実に独特の俳優もいたが、だが“rew”を、いくら心をこめて“リュー”と発音したところで、それはまるで通じず、相手をまごつかせるばかり、というのが僕の経験である。ケニー・ドルー、ビッチズ・ブルーといった表記のほうが、よほど“世界に対して互換性のある”カタカナだと思うのだが。
Brew Mooreも、日本のジャズ論壇ではブリュー・ムーアと書かれる。これをブルー・ムーアと表記してしまうと、スペルを知らない場合BrewではなくBlueという単語を真っ先に想像するから、なのかもしれない。Blue Mitchellというミュージシャンもいるしなあ。lとrの区別を持たない言語を母国語とする国に、巻き舌圏の言語はあまりにも遠い。「ブルー(舌をまるめて)・ムーア」、「ブルー(舌の先を歯の裏につけて)・ミッチェル」という表記があるならばそれはそれで親切だが、わずらわしく感じられなくもない。だからといってブリュー・ムーアと書くのもなんだか個人的にはしっくりこないけれども、それにばかりこだわっていても原稿が進まないので、以下、ブリュー・ムーアと書く。
僕はレスター・ヤングのプレイが大好きなので、40年代から50年代にかけて登場した“レスター・チルドレン”というべきテナー・サックス奏者にもひとかどならぬ関心を抱いている。アレン・イーガー、ワーデル・グレイ、デクスター・ゴードン、ジーン・アモンズ(初期はレスター系だったのだ)、スタン・ゲッツ、ズート・シムズ、アル・コーン、ハービー・スチュワード、フィル・アーソ、デイヴ・ペル、ビル・パーキンス、リッチー・カミューカ、そのほかにもいろいろいると思うが(シカゴで活動したボブ・グラフやサンディ・モジなども入れてよかろう)、そのなかで一番“視線が、はす”というか、“尋常ではないヤバさ”をプンプンとにおわせながら、僕の耳に入り込んできたのがブリュー・ムーアであった。
「レスター・ヤングのように演奏しない奴は間違っている」(Anyone who doesn't play like Lester Young is wrong)と豪語するほどのレスター信者であり、サックスを斜めに持って演奏したレスターよりさらに激しく楽器を傾け、口の端っこ4分の1ぐらいにマウスピースを差し込んで演奏したムーア。なのにプレイ自体は他のレスター系奏者とはまるで違う。太く濁り気味の音色と、壊れた蛇口から泥水が勢いよく飛び出してくるかのごときフレージングが一体となって聴こえてくる。尋常ならざる殺気が、聴く側の首根っこをつかみ、デモーニッシュな世界に引きずり込む。
◇ ◇ ◇
CUBOP CITY
彼が生を受けたのはミシシッピ州インディアノーラ。ブルース好きならB.B.キングゆかりの地としてご記憶かもしれない。生年月日は1924年3月26日、本名はMilton Aubrey Mooreという。
少年時代の彼を伝える記述はほとんどないが、トロンボーン、クラリネットを経て、ハイスクール卒業の頃には既にテナー・サックスを吹いており、テキサス、メンフィス、ニューオリンズなどで演奏していたようだ。
48年、クロード・ソーンヒル・オーケストラに加入したことが契機になったのか拠点をニューヨークに移し、トランペッターのハワード・マギー Brothers And Other Mothers
のフィーチャリング・ソリストにもと共にマチートのラテン・オーケストラ迎えられた。
この時期の名演のひとつに「キューバップ・シティ」(ルースト盤SP)があるが、今はTumbaoというレーベルから出ている同名アルバム所収のライヴ・ヴァージョンのほうが入手しやすいかもしれない。
マチート楽団と共演して素晴らしい成果をあげたジャズ・ミュージシャンはチャーリー・パーカーだけではなかったのである。48年3月には初リーダー・レコーディングもおこなった(サヴォイ・レーベルに)。この演奏、僕は70年代に出た2枚組LP『Brothers And Other Mothers』で愛聴しているが、CDならば『イン・ザ・ビギニング・ビ・バップ』が入手しやすいだろう。
ニューヨークに来たムーアは当然のことながらレスター・ヤングの生演奏を浴びるように聴いたはずだ。「バップ・バンドで演奏するときも私はレスターのスタイルやアプローチで演奏することを貫いた」と、彼が残した数少ない談話のひとつにある。が、“片側の口でタバコを吸いながら、もう片側でサックスを吹いた”といわれる人間離れした演奏法は、ムーア独自のものだったようだ(吸うことと吐くことを同時にやるなんて、普通の感覚では無理だ)。彼のプレイに接し、マイルス・デイヴィス、トニー・フルセラ、カイ・ウィンディング、ジェリー・マリガン、ジョージ・ウォーリントンといった“クールな”連中が声をかけてきた。また49年には、フォーク・シンガーのウディ・ガスリーやランブリン・ジャック・エリオット(ふたりともボブ・ディランに大きな影響を与えた)と共に、大陸横断のドライヴに出ている。そう、ジャック・ケルアックの小説『路上』にある、あのエピソードの元ネタといわれている旅だ。
53年2月になると、どういうわけかパーカーと共にカナダのモントリオールに赴き、テレビ番組に出演している。このときの演奏はアップタウン盤『チャーリー・パーカー モントリオール1953』で聴くことができる。ピアノは若き日のポール・ブレイだ。彼はアメリカ・デビューを飾ったオスカー・ピーターソンの後釜として、「アルバータ・ラウンジ」というナイト・スポットで専属ピアニストを務めていたのだった。
55年、ムーアはサンフランシスコに移り住む。同地はディキシーランド・ジャズのメッカだが、モダン・ジャズにおいてもデイヴ・ブルーベック、カル・ジェイダー、ヴィンス・ガラルディなどが独自のサウンドを創造してロサンゼルスのそれとは一味違う味わいを醸し出していた。
QUINTET
ジャズ・スポットには「ブラックホーク」、「ジャズ・ワークショップ」などがあり、レーベルでは何よりもファンタジー・レコーズが抜きん出ていた。ムーアも当然のことながらファンタジーにアルバムを吹き込んでいる。“般若のムーア”と呼ばれる『ブリュー・ムーア・クインテット』、珍しく微笑み気味のポートレイトが使われた『ブリュー・ムーア』、カル・ジェイダーの『ラテン・キック』などで、脂の乗ったテナー・サックス・プレイを存分に味わうことができる。とくに“般若”は「フールズ・ラッシュ・イン」、ムーア自身も最高の演奏と認めたという「ゼム・ゼア・アイズ」等、珠玉の瞬間が満載だ。サイドメンは無名の連中が多いが、しゃしゃり出ることなく親方の伴奏に徹しているところに好感が持てる。絶好調のムーアは、そこらの歌手以上によく歌うのだから、ジャズジャズしたインタープレイなどいらないのだ。こういうアルバムがあと10枚もあれば、ゲッツの域は無理としても、ズートに匹敵する知名度と人気を、ムーアは得ることができたかもしれない。
IN EUROPE
が、彼にはもう時間が残されていなかった。59年に体調を大きく崩し、翌年にサンフランシスコを離れた。ヨーロッパに渡るのは61年のことだ。まずパリに着き、やがてコペンハーゲンに安住の地を見つけた。ラーシュ・グリーン等を迎えた『イン・ヨーロッパ(Svinget 14)』が当時の代表的録音だが、いったいどうしたのかと思えるほどブロウに艶が感じられない。と同時に、それまでの彼に官能的なまでに漂っていた“ヤバさ”も、いまにも消えうせそうなのが気になる。64年からその翌年、67年からの3年間はアメリカに戻っているが、これといったレコーディングには恵まれなかった。最近、レイ・ナンスの『ボディ・アンド・ソウル』が復刻され、ひょっとしたらムーアのプレイがたっぷり聴けるかもと、喜び勇んで買ったのだが、いるのかいないのかわからないほど存在感が希薄でがっかりさせられた。70年の一時期にはカナリア諸島でも演奏しているが(ギターのジミー・グーリーと共に)、録音が残っているという話は聴かない。晩年の彼が比較的まとまって聴ける発掘音源にデンマーク・ストーリーヴィル盤『ノー・モア・ブリュー』、スティープルチェイス盤『アイ・シュッド・ケア』、『ゾンキー』などがあるが、たそがれたムーアにはあまり触れたくないというのが、いちファンとしての勝手な心情である。
1973年8月19日、ブリュー・ムーアはコペンハーゲンのクラブで、泥酔の末に絶命した(階段から落っこちたという説もある)。翌月の20日には、ベン・ウェブスターが他界。北欧から、アメリカ生まれの2大酒豪テナーマンが相次いで消えた。
|