『世界最高のジャズ』の著者でもある原田和典さんによるJAZZへの熱い想いを語ったコラム!

原田和典のJAZZ徒然草
第17回 幸運を呼ぶテナー・サックス、ラッキー・トンプソンの似合う季節がやってきたぜ
ラッキー ・トンプソン・ミーツ・オスカー・ペティフォード
ラッキー ・トンプソン・ミーツ
・オスカー・ペティフォード

寒くなるとカイロ代わりに聴き入ってしまう音。僕にとってその筆頭格はラッキー・トンプソンのテナー・サックスだ。凝りをそっとほぐしてくれるようなサウンド、鼻歌のごとき自然なフレーズづくり、気負ったところがまったくない“なで肩”の音楽。トンプソンの響きに浸ると、すべての毛穴がゆっくりと開き、大きく呼吸しているような気分になる。とくに1956年吹き込みのABCパラマウント録音には何度となく手が伸びる。
これがオリジナル盤LP、ABC111番『ラッキー・トンプソン』と171番『ラッキー・トンプソン・フィーチャリング・オスカー・ペティフォードvol.2』であればどんなにいいかと思うのだが、僕が持っているのはその2枚をカップリングした『トリコティズム』という93年発売のCDだ。トンプソンの柔らかなテナー・サックス、スキーター・ベストの軽やかなギター、ペティフォードの寡黙なベースが寄り添うように、最小限の音数で会話を交わす。「ボディ・アンド・ソウル」を基にした「ディープ・パッション」はトンプソンの美が集約されたナンバーといえるのではないだろうか。蛍光灯というよりランプ、ナイロンというより木綿の肌触り。こんなおおらかなジャズ演奏は、今の世の中にはもう不可能かもしれない(真のアートは時代を反映したものであるべきだから)と思うと、少し悲しくもなってしまう。

それだけに、自分と同い年のミュージシャンがトンプソンに傾倒していることを知ったときは驚いた。クリス・バイアーズ、ニューヨークを拠点に活動するサックス奏者である。彼の最大のヒーローはハンク・モブレーでもデクスター・ゴードンでもない。ジョン・コルトレーンでもソニー・ロリンズでもない。まさしくラッキー・トンプソンなのだ。彼がなぜトンプソンに惹かれたのかについては、いずれじっくり話をきいてみたいところだが、とにかく、晩年のC・シャープ(クラレンス・シャープ)に師事し、カリル・マディ(50年代初頭から活躍し、60年代にはビル・ダウディの後任としてスリー・サウンズに参加。近年はチャールズ・ゲイルと演奏するドラマー)とも共演してきたバイアーズの“温故知新”ぶりは相当なものといっていい。バイアーズは、思いが高じて、ついに2006年3月、グリニッチ・ヴィレッジのジャズ・クラブ「スモールズ」で4夜にわたって“トリビュート・トゥ・ラッキー・トンプソン”を開催、未レコード化も含むトンプソンのオリジナル曲をほとんどカヴァーするという試みに出た。
プログラムを見るとバイアーズ、ジョン・メリル(ギター)、コリン・スティゴール(ベース)がトンプソン〜ベスト〜ペティフォードのレパートリーに取り組んだり、ラージ・アンサンブルを起用したり、ジョン・ヒックス(ピアノ)を入れたカルテットでプレイしたり、本当に多彩な内容だったようだ。ヒックスはこのライヴの約40日後に亡くなった。

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Lucky Start
Lucky Start

ラッキー・トンプソンは1940年代から50年代初頭にかけて、“スイングとバップのギャップに橋をかける”最大の売れっ子テナー・サックス奏者だった。ライオネル・ハンプトンカウント・ベイシービリー・エクスタインのオーケストラに在籍し、メイン・ソリストとしてプレイした。東海岸と西海岸をまたにかけて活躍、エスクァイア誌の人気投票にも入賞し、いわゆる“エスクァイア・オール・アメリカンズ”の一員としてレコーディングもしている。当時、ワーデル・グレイデクスター・ゴードンスタン・ゲッツ以上の名声を博していたかもしれない。過日ジョニー・グリフィンベニー・ゴルソンにインタビューしたときも、“ラッキー・トンプソンは輝いていた。
あのサウンドに憧れた”と、口をそろえて語ってくれたのを思い出す。だがトンプソンの知名度は現在、おどろくほど低い。たしかに彼はグレイのように悲惨な若死にをしなかった。デクスターのように紆余曲折の末、大輪の花を咲かせることもなかった。ゲッツのように商業的な成功を手にすることも、やり手のプロデューサーや興行師と手を組むこともなかった。40年代にかなり多くのリーダー録音を残したといっても、それらはいずれもSP盤で、メディアがLPに移り変わる頃には廃盤になって久しかった。

アクセント・オン・テナー・サックス
アクセント・オン・テナー・サックス
ウォーキン
ウォーキン
50年代後半、LP時代になってからウラニア盤『アクセント・オン・テナー・サックス』、前述したABC盤2種、フランス録音をまとめたトランジション盤『ラッキー・ストライクス』、同じくドーン盤などが米国で出ているが、このうちひとつでもブルーノートやヴァーヴからリリースされていたら、トンプソンの現在の認知はかなり好転していたはずだ。 最も有名なレコーディングがマイルス・デイヴィスの『ウォーキン』片面(54年)、ついでセロニアス・モンクの52年ブルーノート録音(「スキッピー」など)、もしくはチャーリー・パーカーのダイアル・セッション1曲目「ディギン・ディズ」(46年)というのでは、主役としてのトンプソンが浮かばれない。

Lucky In Paris
Lucky In Paris
トンプソンは56年春にパリへ長期滞在し、翌年には定住を決意する。また58年からはソプラノ・サックスも吹くようになる。元祖“渡仏米国ジャズメン”であるシドニー・ベシェに触発されたのかもしれない。とはいえトンプソンのソプラノはベシェとは対照的にビブラートを抑えたスタイルで、実にノーブルな響きを持っている。この時期、ソプラノを吹いていたモダン・ジャズメンはトンプソン、スティーヴ・レイシーバルネ・ウィランぐらいのものだった(ラッセル・チーヴァーはジャズメンとはいいがたい)。ジョン・コルトレーンがこの楽器をマスターするのは60年に入ってからのことである。僕はトンプソンのソプラノ・プレイにはテナーほどの関心を払わないが、彼がモダン・ソプラノの先駆者のひとりであることは歴史が証明するとおりだ。

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ラッキー・ストライクス
ラッキー・ストライクス
トンプソンがアメリカに戻ったのは63年といわれている。つまりデクスター・ゴードンジョニー・グリフィンアート・テイラーの渡欧と入れ替わるように帰米したわけだ。ここで僕はまた言いたくなる。そのままヨーロッパに留まって、ケニー・クラークフランシー・ボラーン・オーケストラあたりに参加していれば、間違いなくスターとして遇されたはずなのに、と。だがとにかくトンプソンはニューヨークの土を踏み、ソプラノとテナーを持ち替えつつ、プレスティッジやリヴォリといったレーベルにアルバムを残した。その中ではプレスティッジ盤『ラッキー・ストライクス』がよく知られているが、ゆったりとした、メロディいっぱいのアドリブが当時のアメリカでどこまでアピールしただろう・・・・。当時のコルトレーンとトンプソンのテナーやソプラノを聴き比べると、とても同じ楽器を吹いているとは思えない。

この“帰米”は果たしてトンプソンにとって吉だったのかどうか。68年から70年にかけてはスイスのローザンヌで新しい生活を始めている。ここで僕はまたしても思う。なんでスイスなのか、と。ドイツにいればMPSあたりにゴキゲンにスインギーな作品を吹き込んでいた可能性だってあったし、ドン・バイアスベン・ウェブスターとの共演レコーディングだって企画されていたかもしれない。どうしてスイスだったのだろう。スペインでテテ・モントリュー(モントリーウ)とEnsayo盤『ソウルズ・ナイト・アウト』を残したあと、72年(?)にはまたしてもアメリカに戻り、ダートマウス大学の音楽教授となる。この時期にグルーヴ・マーチャントに吹き込んだ『グッドバイ・イエスタデイ』、『アイ・オファー・ユー』が恐らくラスト・レコーディングだろう。

70年代後半以降、トンプソンの動向がほとんど伝えられることはなかった。ホームレスをしていたという説もある。たまたまトンプソンをみつけた旧友がカムバックをうながしたところ、強く拒否されたという話も伝わっているが真偽のほどはわからない。だが94年にシアトルの養護施設へ入り、2005年7月30日にそこで亡くなったことは確かなようだ。他界する6ヶ月前にはリンカーン・センター・ジャズ・オーケストラのシアトル公演に、観客として招待されている。
Happy Days
Happy Days
トンプソンは1924年6月16日サウスカロライナ州コロンビア生まれだから(生後間もなくミシガン州デトロイトに移住)、81歳の生涯だったわけだが、彼が音楽家として十全に“生きた”期間は、果たしてその何分の一だっただろうか。

トンプソンの音源は近年、かなり復刻が進んでいる。40年代のSP録音もまとめられてきたし、ヨーロッパ吹き込みもけっこう入手可能。先に触れたABC盤も改めてフレッシュ・サウンドからCD化されたばかりだ。うたごころのある音楽は永遠に古びない。どうか、この“知られざるヒーロー”の至芸にふれて、体を暖めていただければと思う。

『世界最高のジャズ』(光文社新書)、とくにジャズ入門者の方から暖かい反応をいただいております。ロックやポップス、歌謡曲などからジャズに興味を持ち始めた方にも喜んでいただけるようなガイドブックとして書いただけに、意図が伝わり嬉しい限りです。ジャズになじめば、他のジャンルの音楽も、より、くっきりと耳に入ってくるはずです。だが、僕としては、この本が『のだめカンタービレ』ぐらい読まれてほしい。ぜひ友人、知人の皆様との話題にも、この本のことを混ぜていただければと思います。12月、ジャズとはまったく別の新刊を出します。次回には詳しくお知らせできると思います。どうぞよろしくおねがいいたします 原田和典(はらだ かずのり)
1970年北海道生まれ。ジャズ誌編集長を経て、2005年夏よりソロ活動開始。ジャズ、ブルース、ファンク、ロック、アイドル、突然段ボール、肉球、なんでも好き。

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