『世界最高のジャズ』の著者でもある原田和典さんによるJAZZへの熱い想いを語ったコラム!

原田和典のJAZZ徒然草
第12回 知られざる名手、エディ・バートは奥深いトロンボーン職人だぜ

トロンボーンが好きだ。クレージーキャッツの谷啓や、欽ちゃんバンドの佐藤B作(ヴァルヴ・トロンボーンだった)の影響かもしれない。何年に一度だったか、秋になると「楽器フェア」という催しが横浜でおこなわれる。各楽器メーカーが、自社の製品を展示し、場合によっては試奏させてくれるのである。僕はそこで初めてトロンボーンを持って、音を出してみた。マウスピースを唇にあててブオーと音を出したときの快感といったら、なかった。そしてスライドを動かして、つかのまのトロンボニスト気分を味わった。朝顔を肩の手前に置き、マウスピースに左手の人差し指をそえて、右手でスライドを伸び縮みさせる。それを同時に実行することは、思いのほか難しい。体のバランスがすぐ崩れてしまうのだ。トロンボーン奏者ってすごいなあ、と改めて思えてくる。

カーティス・フラー / ブルースエット
カーティス・フラー /ブルースエット
だがトロンボーンという楽器のジャズ界での位置は微妙かもしれない。少なくとも日本ではピアノやサックス、ギターほどの人気楽器ではないようだ。 J・J・ジョンソンカーティス・フラーしか知らないなあ、というひとも意外と多いのではないだろうか。だが考えてみてほしい。トロンボーンのないビッグ・バンドなんて、想像するだけでもおぞましい、痩せぎすの骨骨しい老婆みたいではないか。トロンボーンの、あのふくよかで、肉汁がしたたるような音があるからビッグ・バンドの鳴りはリッチになるのだ。『アンド・ファイヴ・トロンボーンズ』の存在しないフォー・フレッシュメンのディスコグラフィーなど、それはそれは淋しいものになっていただろう。70年代後半以降のクルセイダーズがあんなにしょうもないのはウェイン・ヘンダーソンのトロンボーンが抜けたからではないのか? もし『ブルースエット』にカーティス・フラーが参加しておらずベニー・ゴルソン・カルテットのアルバムだったら? 僕は買う気が起きなかったと思う。

カイ・ウィンディングとJ.J.ジョンソン / バードランドのJ&K
カイ・ウィンディングと
J.J.ジョンソン /
バードランドのJ&K
40年代中期から後期にかけて次々とトロンボーン奏者がモダン・ジャズに流れた。第2次大戦によってビッグ・バンドは軒並み解散し、小編成のバンド(コンボ)がさまざまなクラブでもてはやされたからだ。 ビッグ・バンドを飛び出したトロンボーン奏者は次々とコンボに入り、当時最先端のスタイルであったモダン・ジャズに染まっていく。 40年代中期、群を抜くトロンボーン奏者と目されていたのがJ・J・ジョンソンだ。 ビ・バップに対応できるトロンボーン・プレイヤーは間違いなく彼しかいなかった(人気では断然、ウディ・ハーマン楽団のビル・ハリスが上だったが、あれはモダン・ジャズではなかろう)。 だが48年頃になるとカイ・ウィンディングアール・スウォープなどが頭角を現し、10年選手だが急速に先鋭化したベニー・グリーンの活躍も際立ってきた(その後、従来のスインギー〜ソウルフル路線に戻るが)。トラミー・ヤングも、場違いにもかかわらず一生懸命ビ・バップした。トミー・タークという、悲しくなるような奏者にまで一時的にスポットが当たった。そしてベニー・グッドマン楽団を離れたエディ・バート、デトロイトの神童とうたわれたフランク・ロソリーノチャールズ・ミンガスに拾われる運命だったとはまさか思っていなかったであろうジミー・ネッパーたちがこれに続いた。このうち、もっとも長命で、にもかかわらず遺憾なほど日本で知られていない存在がエディ・バートである。


21世紀に入ってもトロンボーン片手にセッションに明け暮れる彼だが、リーダー作はそれほど多くない。しかもそのほとんどは50年代中期までに集中している。アメリカでジャズのレコードが10インチ(25センチ)から12インチ(30センチ)に切り替わり始めたのは1955〜56年ごろだ。この時期にバートは『ウィズ・ハンク・ジョーンズ・トリオ(ミュージシャン・オブ・ザ・イヤー)』(サヴォイ)、『アンコール』(同)、『レッツ・ディグ・バート』(トランス・ワールド)を筆頭に6〜7枚を連発している。カーティス・フラーがまだ軍隊にいた時代、J・J・ジョンソンにしても12インチ盤のリリースなど、10インチ音源をまとめた『ジ・エミネントVol・1、Vol・2』(ブルーノート)ぐらいしか出ていなかった頃だ。その時期にこれだけリリースしているのだから、いかにアメリカのジャズ・レコード業界がバートを高く評価していたかがわかる。しかも『ウィズ・ハンク・ジョーンズ・トリオ(ミュージシャン・オブ・ザ・イヤー)』では曲によって楽器をオーヴァー・ダビングして、ひとりトロンボーン・アンサンブルも聴かせている(ルディ・ヴァン・ゲルダーが手がけた最初の多重録音かもしれない)。ちなみにこの副題は、彼がメトロノーム誌で“この年を代表するミュージシャン”に選ばれたことを示す。少なくとも50年代の一時期、ニューヨークのジャズ・トロンボーン界はバートを中心にまわっていた。

1922年5月、ヨンカースに生まれたバートはトランペット、Eフラット・アルト・ホルン、大太鼓を経てトロンボーンを始めた。スライドの動かし方が、傘の開閉に似ているところに親しみを覚えたのだという。 そして1938年、カウント・ベイシー楽団のリハーサルをたずね(ベイシー楽団が出演しているクラブには、年齢制限のため入れなかったので)、トロンボーン奏者ベニー・モートンに弟子入りを頼む。 モートンは定期的にバートにレッスンをつけた。そしてバートは18歳でサム・ドナヒュー・オーケストラの一員としてプロ入り。その後もレッド・ノーヴォチャーリー・バーネットウディ・ハーマンスタン・ケントン等の人気オーケストラを練り歩く。48年にはベニー・グッドマンのバンドにも入っているが、これがバートにとっての未来を決めた。グッドマンは当時、ビ・バップを取り入れようと試み、ワーデル・グレイファッツ・ナヴァロをメンバーに迎えたり、チコ・オファリル等の新しい才能を編曲者に迎えていた。けっきょくグッドマンのプレイはバップのバの字も体得できなかったが、メンバーは大いにビ・バップに感化された。バートは50年にフリーランスのミュージシャンとなり、オーケストラのレコーディングをこなしながら、ニューヨークを拠点にモダン・プレイにも磨きをかけていく。

EDDIE BERT / KALEIDOSCOPE
EDDIE BERT / KALEIDOSCOPE
現代有数のジャズ・レーベル、フレッシュ・サウンドは過去、いくつものバート作品を復刻したり、未発表ものをリリースしたりしてきた。その最新の成果が『カレイドスコープ』というCDだ。ここでようやく、1953年5月、ディスカヴァリー(アート・ペッパーの初リーダー録音を記録したレーベル)に吹き込んだ4曲が容易に聴けるようになった。バートのディスカヴァリー・セッションは他のセッションも含めて、80年代にサヴォイから12インチLP化されたこともあるようだが、僕は見たことも聞いたこともない。1954年におこなわれた通称“幻のモカンボ・セッション”の録音技師である岩味潔さんが、バートのディスカヴァリー10インチ盤の大ファンだったことは覚えているけれど。もう10年ぐらい前の話なので細かくは覚えていないが、岩味さんはこんなことを言っていた記憶がある。モカンボの頃に入手し、すりきれるほど聴いた。すばらしいアルバムだが、10インチの盤質はあまりよくないので、いい盤質で復刻してほしい。バートもいいけれどデューク・ジョーダンのピアノも最高なんだ、というようなことを力説してくれた。そのとき見せてくれた10インチ盤ジャケットは、長い歳月を物語るかのように、実にいいぐあいに変色していたことを思い出す。

『カレイドスコープ』には加えて、バート秘蔵の音源が入っている。1955年、やはりデューク・ジョーダンを相棒に迎えたライヴだ(ニュージャージー州のクラブ「ゴブラーズ・イン」にて。CDではカルテットのように表記されているが、ヴィニー・ディーンらしきアルト・サックスが加わったクインテットで演奏されている)。演目はタイトル曲「カレイドスコープ」。18分に及ぶ、ジャム・セッション感覚モロだしのプレイが楽しめる。先に触れたように、この時期のバートの録音は多い。だがこれほど奔放に、トロンボーンをうたわせる姿はついぞ聴くことができなかった。バートが生き生きしたアドリブ・プレイヤーであることがよくわかる、実にうれしいライヴ・パフォーマンスである。

最後にバートの主な参加作を付記しておく。
チャールズ・ミンガス / Mingus at the Bohemia
チャールズ・ミンガス /
Mingus at the Bohemia
チャールズ・ミンガス『アット・ザ・ボヘミア』(デビュー)
デューク・ジョーダン『トリオ&クインテット』(シグナル)
ギル・メレ『パターンズ・イン・ジャズ』(ブルーノート)
ミシェル・ルグラン『ルグラン・ジャズ』(米コロンビア)
セロニアス・モンク『アット・タウン・ホール』(リヴァーサイド)
サド・ジョーンズ=メル・ルイス・ジャズ・オーケストラ『セントラル・パーク・ノース』(ソリッド・ステート)
サル・サルヴァドール『スター・フィンガーズ』(ビー・ハイヴ)
ベニー・カーター『セントラル・シティ・スケッチズ』(ミュージック・マスターズ)
ガンサー・シュラー『エピタフ』(米コロンビア)
T・S・モンク『モンク・オン・モンク』(N2K)などなど。

犬吠埼に行ってきた。房総の海は厳しい。海水浴場のような、親しげなそぶりは見せない。波が岩にくだけちり、ゴーウゴーウと鳴り続ける。その音が朝も夜もしんしんと響いてくる。自然のこわさ、海の恐ろしさを全開にして、こちらに立ち向かってくる。少しも寄り添おうとしないのだ。そこがいい。加山とサザンとチューブの流れる、ふにゃけた海だけが日本の海ではない。挑む海が観たけりゃ、犬吠埼のしぶきを浴びるが良い。 原田和典(はらだ かずのり)
1970年北海道生まれ。ジャズ誌編集長を経て、2005年夏よりソロ活動開始。ジャズ、ブルース、ファンク、ロック、アイドル、突然段ボール、肉球、なんでも好き。

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