『世界最高のジャズ』の著者でもある原田和典さんによるJAZZへの熱い想いを語ったコラム!

原田和典のJAZZ徒然草
第11回  王様のブランチよりジャズ・ブランチの似合う季節がやってきたぜ

僕がブランチという言葉を知ったのは東京に来てからだ。北海道にはそんな洒落たものはなかった(今は知らないが)。「王様のブランチ」というテレビ番組で、ブランチというものの存在を覚えた。この番組には優香が出ている。優香といえば個人的には水着姿が印象深い。90年代の半ばには、毎週のようにマンガ雑誌やアイドル雑誌のグラビアで優香の水着が拝め、僕を駆り立たせてくれた。だけど今の若いひとは優香が素晴らしい水着タレントだったなんて知らないんだろうなあ。ブランチとはbreakfastとlunchの合成語。朝と昼兼用のメシを、チンタラ食う。これがなかなか、気持ちいい。

「イリディアム」、「ブルーノート・ニューヨーク」、「B・B・キング・ブルース・クラブ&グリル」など、ライヴを聴きながらブランチを楽しめる店がマンハッタンにはいくつかある。僕は日曜の午後、「カフェ・ループ」(105 West 13th St. at 6th Ave.)というところでおこなわれているジャズ・ブランチに行った。ライヴ・レコーディングするという情報を入手したからである。自分の拍手が入ったCDが世に出るなんて、悪い気はしない。

日曜の昼のジャズ。僕がまっさきに思いつくのは『ジャズ・フォー・ア・サンデイ・アフタヌーン』(ソリッド・ステート)というレコードだ。「ヴィレッジ・ヴァンガード」にディジー・ガレスピーや、ジョン・コルトレーンのバンドを辞めて間もないエルヴィン・ジョーンズマイルス・デイヴィスに誘われる前の若きチック・コリアなどが集まったジャム・セッションを収めた作品で、ダウンビート誌で5つ星半という評点を獲得したことでも知られている。ダウンビートのシステムは5星が最高点だから、“最高よりもっと最高”という異例の評価を得たのである。

ウォーレン・ヴァシェーイ
ウォーレン・ヴァシェーイ
「カフェ・ループ」のブランチはここ数年、ボブ・キンドレッドのバンドに固定されている。いつもはキンドレッドのテナー・サックス、ジョン・ハートのギター、スティーヴ・ラスピナのベースで出演しているのだが、この日はレコーディングということもあってティム・ホーナーのパーカッション、ウォーレン・ヴァシェ(ヴァシェーイと発音する)のコルネットが加わった。ティムがドラムスではなく打楽器を叩くのは、演奏スペースにドラム・セットを置く場所がないからだ。そのくらいのインティメイトな空間の中でジャズが演奏され、それを楽しみながらブランチを味わうのである。

ボブ・キンドレッド
ボブ・キンドレッド
僕がキンドレッドに初めて会ったのはもう10年近く前、カンザス・シティでおこなわれたパーティでだ。一聴してすぐ、ウディ・ハーマン好みのテナーだなあと思った。アル・コーンほど大味ではないが、十二分な力強さがあり、そこにズート・シムズ的なドライヴ感、スタン・ゲッツ的な香り高さ、ビル・パーキンス的な抒情をも感じさせてくれた。なので話しかけてみたら、実際にハーマン楽団にいたというではないか。またバディ・リッチのオーケストラでも演奏したことがあるといっていた。奥さんはアン・フィリップスルーレットに『ボーン・トゥ・ビー・ブルー』というアルバムを残している、あの美人歌手である。客席にはそのアン夫人も顔を出し、歌いはしなかったけれど、亭主のテナー・サックスに聴きほれていた。

「アイ・キャント・ユー・エニシング・バット・ラヴ」から始まったライヴは、意外なところではソニー・ロリンズ作「プレイイン・イン・ザ・ヤード」もはさみ、ひたすら流麗に進んだ。ゲストのウォーレンはスカスカした音で吹いていたが、これはもう彼のスタイルであろう。70年代、スコット・ハミルトンと組んでコンコード・レコードで録音していた頃から変わらない芸風だ。僕はウォーレンボビー・ハケットルビー・ブラフの後継者的印象を抱いていたこともあるが、どうもそれはピントのずれた見方だったようだ。ピー・ウィー・アーウィンの弟子だというし、ディキシーランド・ジャズを心に持ったリリカル系ラッパ吹きなのかもしれない。もっとも、ルックスは70年代とは驚くほど変わった。眉毛にかかるほどあった前髪はすっかりなくなり、横幅が倍になったので別人のよう、コルネットがほんとうに小さく見える。

スティーヴ・コールマン
スティーヴ・コールマン
ブランチでたっぷりジャズを楽しめるところがあれば、ただジャズを聴くだけ、チップなしの店もある。60年代のジャズ・クラブ「ハーフ・ノート」跡地にほど近い「ジャズ・ギャラリー」(290 Hudson St.)は、まさにギャラリー。飲食物のサービスはない(だからチップもいらない)。暖房は小さな電気ストーブひとつ。近所の店で買ってきたスープで体を温めながら、熱いジャズを聴く。スティーヴ・コールマン・プレゼンツと題するワークショップも好評継続中だ。僕も15ドル払ってコールマン先生の授業を受けた。参加者は殆どミュージシャンのようで、単なる一ファンである僕は最初、戸惑ったが、授業の合間にアルト・サックスをブリブリ吹きまくるのだから、やはりファンとしてはたまらない。譜面を一切使わず(生徒が自分の譜面に書き込むのは可)、あくまでも口、声、ボディ・パーカッションでM-BASEのエキスを受講生に仕込む。質疑応答もあったので、聞き取れた範囲でメモしておく。

質問:“誰から影響を受けましたか”
コールマン:“特定の人物から影響を受けたことはないが、生まれてから今に至るまでのすべてのものから影響を受けているともいえる”
質問:“オーネット・コールマンについてどう思いますか”
コールマン:“彼と私の共通点は、同じ苗字で同じ楽器を演奏していることだけだ”
質問:“エリック・ドルフィーについては?”
コールマン:“あまり聴いたことがない。僕が真剣に聴いたサックス奏者はチャーリー・パーカーメイシオ・パーカーヴォン・フリーマンだ”
質問:“M-BASEとはなんですか”
コールマン:“ビ・バップのコンセプトとファンクのリズムの融合”

最後の回答は僕にとっても非常に面白かった。というのはコールマンはこれまで何度もインタビューやウェブサイト上でM-BASEについて長大な(難解な)説明を繰り返していたからだ。だがこの日のコールマンは単純明快に、この質問に答えていた。長く答えたところで通じないのではないかと思ったのかもしれないが・・・。

この日、コールマンの助手をつとめたのはタイシャン・ソーリーマーカス・ギルモア。ふたりともドラマーだが、ドラムスは1台しかないのでタイシャンはピアノを弾いたり(彼は去年のヴィジョン・フェスティバルでソロ・ピアノ・パフォーマンスをおこなうほど優れたピアニストでもある)、イスをたたいたりした。そしてコールマンは最後に、ドラムスとイスのパーカッション・アンサンブルをバックに「コンセプション」を演奏した。別名「ディセプション」。ジョージ・シアリングが作曲し、マイルス・デイヴィスバド・パウエルも演奏したナンバーだ。くねるようなリズムにのせて、コールマンがこの曲を吹き、アドリブを展開していくと、あっという間にビ・バップがM-BASE化していく。この講義はコールマンがNYにいるときは、毎週月曜日に必ずおこなわれている。最後の頃には英語力の足りなさを忘れ、何度でもコールマン先生のレクチャーを受けたいと思った。


ボビー・カルカセース
ボビー・カルカセース

「ジャズ・ギャラリー」ではボビー・カルカセースのライヴも見た。キューバでジャズ・プラーサというフェスティバルを主催している、同国を代表する芸術家だ。僕はかつて勤めていた雑誌でラテン・ジャズ特集をしたとき、彼にお世話になった。が一度も面会したことがないので、会いに行ったのだ。息子のキーボード奏者=ロベルト・カルカセースは昨年、ジューサのグループの一員として「ブルーノート東京」に出演したが、パパ・ボビーはまだ日本に来たことがない。フリューゲルホーンを吹き、ピアノを弾き、スキャットで歌い、最後には“ジャズ・ギャラリーという店名にふさわしく、僕も絵を描きます”といい、小さなキャンバスに即興でペインティングを始めた。とにかく多彩なのである。サポート・メンバーのうちダフニス・プリエト(ドラムス)、ジョン・ベニーテス(ベース)は故レイ・バレートのバンド・メンバーで、セッションは自然にバレート追悼的なものにもなった。

最低限の設備といえば「ザ・ストーン」(the corner of Avenue C and 2nd street)もあいかわらず冷暖房なし、席をとれなかったひとは体育すわりで演奏を聴く。僕はここで2つのライヴを味わった。ひとつはロビン・ホルコムだ。客席には夫のウェイン・ホーヴィッツもいた。この夫妻はシアトルに住んでいるのでかつてほどニューヨークでライヴをしていない。マーティ・アーリックダグ・ウィーゼルマンのクラリネットが絶妙なハーモニーを奏で、そこに中島みゆきを思わせるホルコムの歌声が乗る。口の中で音を四角く反響させて細長く出していくところ、フレーズの抑揚がとてもよく似ている。もっとも僕は中島みゆきの歌を風の中のスバル〜と、悪女になるのは月夜がどうした、しか知らないのだけど。別の日はブッチ・モリスの新たなコンダクション“ファントム・ステーション”に引き込まれた。ヴァイオリン、ヴィオラ、チェロ、ハープ、シンセサイザー、エレクトリック・ギター、コントラバス、ピアノ、ラップトップという編成。チェロのひとが志村けんにそっくりでなんだか妙に親しみがわいた。バラエティ番組のゲストとして、若手司会者にもちあげられ、ニヤニヤしているときの志村の表情そのままで、すさまじいフレーズをチェロで弾くのである。ブッチは手のひらを上にあげ、目をつぶり、そっと指揮棒を振る。手のひらの動きは、音をボールに見立て、それを打ったりはじいたりさわったりついたりしているかのようであった。彼には音が見えているのかもしれない。まさしくファントムの世界におりたった気分になった。

ボビー・サナーブリア
ボビー・サナーブリア
「ザ・ストーン」を2ブロック北へ行き、左に折れるとリー・モーガンが射殺された「スラッグス」の跡地がある。そのまま2、3軒西へ行くと、ラテン音楽が漏れ聴こえてくる。「ニューヨリカン・ポエッツ・カフェ」(235 east 3rd st)、打楽器奏者ボビー・サナーブリアのオーケストラだ。メンバーは皆、サナーブリアが教える音楽学校、ニュー・スクールの生徒たち。もちろん演奏は猛烈にうまい。
ボビー・サナーブリア・オーケストラ
ボビー・サナーブリア・
オーケストラ
ブラスの鳴り、炸裂パーカッションには時差ボケも吹っ飛ぶ。ただMCが異様に長い。
「マンボ・イン」をやる前にはマリオ・バウサーについて語り、ピアニストをフィーチャーするときはノロ・モラーレスチャーリー&エディパルミエーリ兄弟などについてもコメントする。あまりにもしゃべるので、“マエストロ、もうわかったから演奏を始めてくれよ”なんて声もかかるほどだった。だが演奏はさすがに素晴らしかった。伝説の詩人=ミゲル・ピニェロが愛した店は、今もアベニューCの深夜をラテンに染めあげているのだ。

武満徹展“Visions in Time”を初台の東京オペラシティで見た帰り、足を伸ばして笹塚へ行く。僕が90年代のはじめに住んでいたところだ。風呂なしの4畳半で家賃は4万円だった。ゴウツクな大家だった。「敷金」というのは差し上げるものだということを教わった。10数年ぶりにそのアパートを見に行くと、跡形はきれいさっぱりなくなっていて、新しいマンションが建っていた。角にあった弁当屋も消え、銭湯は駐車場になっていた。時は確かに移り変わっている。 原田和典(はらだ かずのり)
1970年北海道生まれ。ジャズ誌編集長を経て、2005年夏よりソロ活動開始。ジャズ、ブルース、ファンク、ロック、アイドル、突然段ボール、肉球、なんでも好き。

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