ご冥福をお祈りします、といい終わらないうちにまた別の巨匠が他界してしまう。そんな印象がぬぐえない最近のジャズ界である。名前をあげていくだけで紙面が埋まってしまいそうだ。どんなミュージシャンでも、僕は、亡くなると悲しい。
CECIL TAYLOR / CONQUISTADOR!
トランペッターのラフェ・マリクが亡くなっていたことを僕は最近知った。そう、セシル・テイラーの大名盤『ダーク・トゥ・ゼムセルヴズ』(エンヤ)で、しゃかりきになってトランペットを吹きまくった男である。テイラーはあまりバンドにトランペッターを起用しない。それに彼の音楽はトランペットとあまり相性のいいものでもなさそうだ。
66年の『コンキスタドール』(ブルーノート)ではビル・ディクソンが起用されているが、まあ、テイラーとディクソンというふたつの世界がそれぞれ独立して存在しているという感じで、まざりあう前に演奏が終わってしまったという感じがしないでもない。ディクソンとテイラーの共演では、パーカッションにトニー・オクスレイ(オクスリー)を迎えたVicto盤のほうが一層おもしろかった。しかしここでのディクソンはもう、トランペットをトランペットのように吹こうとは思っていないようで、バクのいびきのような音をエフェクターにつなげて表現しているだけであるが・・・。
CECIL TAYLOR /
UNIT STRUCTURES
『ユニット・ストラクチャーズ』(ブルーノート)ではエディ・ゲイルがトランペットを吹いていた。非常に張り切ったプレイという印象があるが、“フリー・ジャズのトランペット奏法”のマニュアル(実はそんなものはないのだが)に沿ってやっているだけという気がしないでもない。もちろんそこはテイラーのすさまじい包容力によって、トータルとしては見事な音絵巻の一部として機能してはいるけれど。テッド・カーソンも初期のテイラー・バンドでトランペットを演奏していた。59年の『ラヴ・フォー・セ−ル』(ユナイテッド・アーティスツ)がその代表的1枚だが、カーソンがその後、テイラー・バンドの同僚ビル・バロン(テナー・サックス)と共に独立し、テイラー抜きのテイラー・バンドのようなグループを率いるあたり、やはりテイラーの音楽にはラッパを合わせにくかったのかのかとも僕は推測する。カーソンは僕の知る限り一度も日本に来ていないが、現在も健在だ。ニュージャージーのジャズ・クラブに定期的に出演して、ジャム・セッション等を仕切っているほか、ヘンリー・グライムスとのデュオでも耳目を集めている。
僕がラフェ・マリクを生で聴いたのはいつだったのかもう覚えていない。
たぶん、今は亡き「CB‘ズ・ラウンジ」(「CBGB」の別室)だったと思う。ただただすばらしかった。
顔を真っ赤にしながら、緩急自在のフレーズを、トランペットの朝顔から放出するマリク。演奏するのが楽しくてしょうがないという表情で、ほとんど休みなしに閃光のような音をアンサンブルにぶつけていた。自然発生的な、なんだかわからないけど情念が爆発してしまったようなプレイがほんとうに気持ちよかった。『ダーク・トゥ・ゼムセルヴズ』から30年近くたっているのに、あのテンションを保っているではないか。さっそく僕は店の向かい側にあるレコード店でラフェ・マリクのCDを漁ろうとした。だがそれは見つからなかった。僕がもっとも好きなフェスティバルのひとつ、ヴィジョン・フェスティバルが今年もロウアー・イーストサイドで開催されるが、初日はラフェ・マリク・トリビュートと題され、ロイ・キャンベル(トランペット)、マーシャル・アレン(サックス)、デイヴ・バレル(ピアノ)などが故人の魂に捧げて演奏するという。
僕が最初にニューヨークに旅行したのはテロが起こる数年前だが、飛行機に乗る前から絶対行こうと考えていたのが「ヴィレッジ・ヴァンガード」のジャッキー・マクリーン・カルテットであった。僕は大のマクリーン・ファンだから彼が来日すると必ず見ていたし、96年には4時間ぐらいのインタビューをとった。マクリーンもよくつきあってくれたものだ。
マクリーンはその間、ずっとビデオ・カメラをまわしていた。“記録としてとっておくだけだから”とか言っていたが、今後マクリーンのドキュメンタリー映画ができれば、そこにそれが挿入されないとは限らない。そうなると1996年当時の原田和典も画面の片隅にうつるのかもしれない。途中からドリー夫人(『ジャッキーズ・バッグ』に入っている「バラード・フォー・ドール」や、マル・ウォルドロンが書いた「ジャッキー・マクリーンのドリーム・ドール」のモデルになったひと)も取材にまじってきて、マクリーンはさらに上機嫌になった。アイスティーを何度も注文し、グラスひとつに3個も4個もガムシロップを落とし、ストローでかきまわして飲み干すマクリーン。その速度、糖分の量は異様なほどであった。インタビューは無事に終わり、マクリーン夫人は夫妻がコネティカット州でやっているジャズ私塾(といえばいいのか?)「アーティスツ・コレクティヴ」のパンフレットをくれた。一度授業を見に来ませんか、もしなんだったら入学しても構いませんよ、というようなことを言ってくれた。そのとき僕がマクリーンに弟子入りしていたら、自分の人生はどうなっていただろうと、手元にあるパンフレットを見ながら、しみじみ思う昨今である。
なので僕はマクリーンと数年ぶりに合える喜びで「ヴィレッジ・ヴァンガード」に行ったのであるが、店の前にある細長い手書きの告知短冊にはマクリーンの名前がなく、かわりに“シダー・ウォルトン・トリオ・ウィズ・ヴィンセント・ハーリング”という文字があった。とりあえず店内に入り、シダーに問いただすと、急遽マクリーンは出演が不可能になったとのことだった。翌年の同じ時期、またNYに行き、レコード店で情報を入手すると、「ヴィレッジ・ヴァンガード」、“シダー・ウォルトン・トリオ・ウィズ・ジャッキー・マクリーン”という文字が目に入った。去年の雪辱だ。再びヴァンガードに行った。が、短冊にはマクリーンの文字はどこにもなかった。またキャンセルになったのだ。このころになるとマクリーンは日本にも来なくなった。レコーディングも途絶えたままだ。
けっきょく僕がマクリーンと再会できたのは2004年の「イリディアム」公演だった。最初は名盤『ワン・ステップ・ビヨンド』のリユニオンで、マクリーン〜グレイシャン・モンカーIII(トロンボーン)〜ボビー・ハッチャーソン(ヴァイブ)をメインにしたクインテットで出演すると告知されていた。だが当日、会場に行ってびっくり。ルネ・マクリーンを含むジャッキー・マクリーンのバンドに、曲によってモンカーとハッチャーソンが入るという総勢7人。
『ワン・ステップ・ビヨンド』からは「フランケンシュタイン」しかやらなかった。
マクリーンのソロ・パートは短く、吹かない曲もいくつかあった。しかも前座がついた。最近、日本でも人気のフランチェスコ・カフィーゾである。彼がジェームズ・ウィリアムス(ピアノ)とカルテットを組んで、45分ほど演奏したのだ。ウィリアムスはげっそりと痩せ、髪の毛は真っ白で、どこからみても老人に見えた。彼が51歳で亡くなったのはこの数週間後のことである。
マクリーンの演奏は、それでも素晴らしかった。時間は短くても、あの音に変わりはないからだ。音の魅力。それだけで僕はマクリーンにトロトロになってしまう。観客の中にはNBAのスーパースターで大の音楽好きでもある“シャック”ことシャキール・オニールがいた。終演後、楽屋に行ったシャックを追い、彼の横に立ってみたが、すごかった。ジャイアント馬場よりも遥かに大きいのではないか。僕の身長が彼の足の長さなのである。
ここ15年ほどマクリーンのレギュラー・バンドでピアノを弾き、「イリディアム」でもサポートしたアラン・ジェイ・パーマーが去年の夏に単身来日した。そのときには“マクリーンは元気だ。きっとまた演奏活動を再開できると思うよ”と力強く言ってくれたのだが。合掌。
Charlie Parker / Bird And Diz
あともうひとり、オスカー・トレッドウェルの死についてもふれておく。北欧出身のジャズ評論家である。ジャズ評論界にはレナード・フェザーという、自分が書いたしょうもない曲をミュージシャンのレコーディングに押し付ける御仁がいたが、トレッドウェルは逆にミュージシャンに曲を捧げられる光栄に浴している。こういうひと、あまりいない。レニー・トリスターノがバリー・ユラーノフ(ウラノフではない)に「クーリン・オフ・ウィズ・ユラーノフ」を書いたことはあるが。トレッドウェルは少なくとも3人の偉大なミュージシャンに曲を贈られている。チャーリー・パーカー『バード&ディズ』(ヴァーヴ)の「アン・オスカー・フォー・トレッドウェル」、セロニアス・モンク『ビッグ・バンド&カルテット・イン・コンサート』(コロンビア)の「オスカT」、ワーデル・グレイ『メモリアルVol・1』(プレスティッジ)の「トレーディン」だ。トレッドウェルの功績については、あるていど調査がまとまった時点で改めて書きたい。
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